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7月1日 第1回 アートマネジメント講座 長津結一郎氏 特別講義「障がいとアート」

2018年07月06日活動報告

7月1日、いよいよアートマネジメント講座がスタートしました。
 
第1回目は、九州大学大学院芸術工学研究院助教の長津結一郎先生による特別講義。
「障がいとアート」についての概論、長津さんのこれまでの経験をもとに、今後の企画や運営の参考になるお話を聞かせていただきました。



 
◇◇◇私たちの間にある境界線◇◇◇
 
すぐにレクチャー開始かと思いきや、長津さんの呼びかけで、受講生もスタッフも一度席を離れ、椅子も机もない広いスペースに集まりました。
 
「この一年間、野球もしくはソフトボールをした人!」
長津さんの声に、した人、していない人に分かれました。
 
そして、その間には一本の境界線がひかれました。
 
この会場の中で、一年間に野球かソフトボールをしたのは、お一人だけ。
 
その後も質問は続きます。
 
「魚を飼っている人!」
「苗字が、佐藤さん、鈴木さん、高橋さん、田中さん!」
 
質問の度に境界線が引かれます。


 
「福岡市在住の人!」
「東区在住の人!」
 
質問によって、そうである人、そうでない人の人数も変わります。
 
「朝ごはんは、パン派?ごはん派?」
 
日によって違う、今日はバナナ、という人も。
答えにグラデーションが出てきて、境界線の近くにいる人もいます。
 
最後に長津さんはこう言いました。
 
「障害がある人、ない人、わかれてみましょう!」
 
その場を動く人はいません。
「何をもって、障がいがある、と判断してよいのかわからない」
「言いたくない」
「自分がそもそも障がいがあるのか、わからない」
という声が聞こえてきました。
 
「障がいがあるって、どういうことだろう?」
「境界線って、誰が引いているんだろう?」
 
私たちの中に、この時間最初の疑問が生まれました。
 
 
◇◇◇障害の医学モデル?社会モデル◇◇◇
 
障害者と障がい者。「害」という字を漢字で書くか、書かないか。
それぞれの使い方にそれぞれの考え方があります。

「害」という字がもつネガティブなイメージに不快感を覚える人がいるのであれば、そこから改めようと、都道府県レベルでも「障がい」というひらがな表記が広がりました。(当事業も「障がい」という表記を使用しています。)
 
長津さんは「害はどこにあるのでしょうか?」と疑問を呈し、障害の個人モデル(医学モデル)と障害の社会モデルについて説明します。
 
「障がい者に社会参加の制限や制約があるのは、その人に障がいがあるから」とするのが個人モデル(医学モデル)の考え方。
それに対して、「社会こそが障壁をつくっており、それを取り除くのは社会の責務だ」というのが社会モデルの考え方。これは、障害者自身の経験や視点によって従来の枠から障害、障害者を解放しようとする「障害学」の大きな成果のひとつとして提起されたものです。
 
現在では、個人と周囲の環境の両方から捉えて、生活の機能が制限されているかどうか、つまり障害がある状況かどうかを全体的に理解することが目指されています。
 
「障がいはどこにあるのだろう。何が原因なんだろう?」
「障がいがあるかが状況によって変わるなら、障がい者って誰のことだろう?」
「境界線なんてあるのだろうか?」

私たちの疑問は、更に深くなります。
 
 
◇◇◇アートと社会包摂◇◇◇
 
芸術の分野で頻出するようになってきた、社会的包摂(社会的排除に対応する概念)という言葉。
近年、文化芸術を通して、排除や孤立の状況にある人たちを社会に取り込んでいこうと盛んに言われています。
 
しかし、福祉分野では議論が広がっていることを長津さんは伝えます。
 
「包摂しやすい人だけを取り込むことにならないか?包摂そのものが排除の裏返しではないだろうか?」
 
更に、障がいのある人に対して持つイメージについても指摘します。

「例えば、障害のある人は、聖なる子のように純粋でピュアであるというイメージを持つこと。このことで、私たちとは違うと線を引いていることにはならないだろうか?」
 
長津さんの言葉に、私たちは自分自身のこれまでの関わりや、勝手に抱いていたイメージを振り返ることになります。


 
そして長津さんは、「これから障害があるとされる人たちと何かをしようと取り組むときに、どこまで包摂できるか?誰を対象にどう関わるか?その落としどころを探すことになるでしょう」と受講生に伝えます。

私たちは「障がい者とアート」というテーマで、誰と、どこまで、何ができるでしょうか。
自分自身に対する疑問が沸き、モヤモヤ感は増すばかりです。
 
 
◇◇◇「東京境界線紀行『ななつの大罪』」◇◇◇
 
最後に「マイノリマジョリテ?トラベル」という、作品を創作するための活動体が2006年に発表したパフォーマンス作品「東京境界線紀行『ななつの大罪』」第一幕 バス?クルーズの一部を鑑賞しました。
 
多様なマイノリティのアイデンティティを抱え、異なる視点をもった仲間が、一緒に移動することで、「マイノリティ」と「マジョリティ」の立場が相対的なものであり、線引きはその場その場で移り変わるものであることを身をもって体験する試みの中の、都内をバスで移動する映像とその体験のインタビュー映像です。


 
車椅子の大きさによってバスに乗れる人、乗れない人。
自分自身に該当すればボタンを押し、下車しなければならない、というルールのもと、バスを降りる人たち。
「私は脳性まひである」
「私はアルコール依存症である」
「片親である」
その境目はどこにあるのか? 自分はいつ該当するのか?
該当すればバスを降りる、というルールに従わなかったことにより、マイノリティの立場になる人もいました。
 
この日の長津さんのレクチャーの中で次々に浮かんだ疑問やモヤモヤ感が、さらに高まるような映像でした。
 
 
◇◇◇関係性から生まれるアート◇◇◇
 
モヤモヤさせるだけさせて、長津さんは答えを教えてくれるわけではありません。
それは、ひとつの正しい答えがあるわけではなく、こうであると教えることのできないものなのだと思います。

誰かが解決してくれるわけではない課題について、それぞれが考え続け、自分なりの答えを探さなければいけません。
 
長津さんは答えの代わりに、自身のアートプロジェクトへの取り組み、多様な個性を持つ人たちとのアートを通した関わり方を「共犯性」という言葉で説明してくださいました。
 
「共犯性」とは、芸術活動などを通じた非日常な関わりと出逢いによる新たな相互作用の出現を期待する関係性。
ひとびとのあいだにある「ちがい」を、「ちがい」のままにしておきながら、見たこともない作品に取り組む。
 
自分自身のこれまでの概念を突き付けられながら、多くのことを問い直し、感情が揺さぶられる濃密な時間となりました。


 
長津さんには来年3月の受講生による企画実践の報告会に再び登場いただきます。
スタートに立ち合って大切な問いを与えてくれた長津さんに、どんな報告がなされるのでしょうか。とても楽しみです。



(長津さんの発言内、また障害学に関する箇所は「障害」と表記し、それ以外の箇所は当事業で使用している「障がい」と表記しております。)
 
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